彼は、犯罪者に見えるような青年ではなかった。
地方から上京した大学3年生。
私立大学の経済学部に通い、成績は中の上。サークルにも入り、友人もいた。就職活動を控え、インターンにも参加し始めていた。
親からの仕送りは多くない。
家賃、食費、スマホ代、交通費。
生活は楽ではないが、破綻しているわけではなかった。
アルバイトもしていた。
居酒屋のホール。
時給は悪くない。
だが、深夜まで働いても、手元に残る金は知れている。
友人たちは、海外旅行に行っていた。
ブランドの財布を買っていた。
就活用のスーツも、彼より少し良いものを着ていた。
彼は、自分が極端に貧しいとは思っていなかった。
ただ、いつも少し足りなかった。
飲み会に誘われても、財布を気にする。
デートに行きたくても、交通費と食事代を考える。
就活用の写真、スーツ、靴、交通費。
これから金がかかることだけは、はっきりしていた。
そんなとき、SNSで一つの投稿を見た。
「即日高収入」
「簡単作業」
「誰でもできる」
「日給5万円以上」
「身分証だけでOK」
彼は、最初は怪しいと思った。
だが、同時にこうも思った。
「一回だけなら」
その一回が、彼の履歴を変えた。
最初は、犯罪だと思っていなかった
彼がその投稿を保存したのは、深夜だった。
居酒屋のバイト帰り。
終電に近い電車の中で、スマホを見ていた。
疲れていた。
足も痛い。
翌日は大学の授業がある。
それでも、今月の給料は家賃とカード代でほとんど消える。
画面に流れてきた「高額バイト」の文字が、妙に現実味を帯びて見えた。
普通なら、怪しいと思って流す。
彼も、そうするつもりだった。
だが、詳細を見ると、そこにはこう書かれていた。
「荷物を受け取るだけ」
「指定された場所に行くだけ」
「難しい作業なし」
「初回でも安心」
「学生歓迎」
犯罪という言葉は、どこにもなかった。
彼はDMを送った。
返事はすぐに来た。
相手は丁寧だった。
妙にフレンドリーでもあった。
「学生さんでも大丈夫です」
「危ない仕事ではありません」
「みんなやってます」
「身分証だけ確認します」
彼は少し安心した。
もちろん、完全に安心したわけではない。
怪しさはあった。
だが、それ以上に金が必要だった。
この時点で、彼はまだ引き返せた。
返信しない。
ブロックする。
誰かに相談する。
警察や大学の相談窓口に聞く。
選択肢はいくつもあった。
しかし、彼はどれもしなかった。
「本当に危なかったら、途中でやめればいい」
そう思った。
身分証を送った瞬間、逃げ道が狭くなった
相手から求められたのは、身分証の写真だった。
学生証。
運転免許証。
住所がわかるもの。
本人確認のためだという。
彼は迷った。
個人情報を送るのは怖い。
だが、普通のバイトでも身分証は出す。
派遣登録でも出す。
口座開設でも出す。
そう自分に言い聞かせた。
写真を撮って送る。
数秒後、既読がつく。
その瞬間、彼の立場は変わった。
相手は彼の名前を知った。
住所を知った。
大学名も知った。
場合によっては、実家の情報も推測できる。
それでも彼は、その重さを理解していなかった。
しばらくして、相手から次の指示が来た。
指定の時間に、指定の駅へ行く。
そこで連絡を待つ。
荷物を受け取る。
別の場所へ運ぶ。
報酬は当日中に渡す。
彼は聞いた。
「これって違法じゃないですよね?」
相手はすぐ答えた。
「大丈夫です」
「普通の回収業務です」
「余計なことを知らないほうが楽ですよ」
最後の一文に、彼は違和感を覚えた。
だが、もう身分証を送っている。
今さら怖くなったとは言いにくい。
相手からは、すでに何度も連絡が来ている。
彼は自分に言い聞かせた。
「受け取って運ぶだけ」
「中身を見るわけじゃない」
「一回だけ」
「知らなかった」では済まない場所へ
当日、彼は指定された駅に向かった。
平日の昼。
人通りは多い。
普通の街だった。
犯罪の現場という感じはまったくない。
だから、逆に安心してしまった。
スマホに連絡が来る。
「今から移動してください」
「この服装の人が来ます」
「話しかけられたら、こう答えてください」
「受け取ったら、すぐ移動してください」
指示は細かかった。
この時点で、彼は明らかにおかしいと感じた。
なぜ、普通の荷物回収にそんな指示が必要なのか。
なぜ、相手の名前も会社名も知らされないのか。
なぜ、電話ではなく匿名性の高い連絡手段なのか。
だが、彼は止まれなかった。
怖かった。
金も欲しかった。
そして何より、ここで逃げたら相手に何をされるかわからないと思った。
やがて、高齢の女性が現れた。
彼女は不安そうだった。
何かを確認するように、何度も周囲を見ていた。
彼は、その表情を見た瞬間に理解した。
これは普通の荷物ではない。
それでも、体は動いた。
彼は、指示されたとおりに言葉を発した。
女性から封筒を受け取った。
その場を離れた。
封筒は軽かった。
だが、その軽さとは逆に、手の中にあるものが急に重く感じられた。
彼はその中身を見なかった。
見なければ、知らなかったことにできる気がした。
だが、その考えは甘かった。
逮捕は突然だった
彼が次の場所へ向かう途中、声をかけられた。
警察だった。
最初、彼は何が起きたのかわからなかった。
ドラマのように怒鳴られたわけではない。
周囲の人々も、すぐには気づかなかった。
ただ、数人の大人に囲まれ、逃げられない空気になった。
「この封筒は何ですか」
「誰から受け取りましたか」
「誰に渡す予定でしたか」
「指示を出していた相手は誰ですか」
彼はうまく答えられなかった。
知らない。
わからない。
SNSで連絡を取った。
バイトだと思った。
中身は見ていない。
何度もそう言った。
だが、警察の表情は変わらなかった。
彼はそのまま連れて行かれた。
スマホを見られた。
やり取りを確認された。
身分証を送っていたことも、報酬額を聞いていたことも、指示を受けていたことも、すべて残っていた。
彼はそこで初めて、自分が「知らなかった」では済まない場所にいたことを知った。
その封筒の中身は、詐欺被害者から渡された現金だった。
彼は、受け子になっていた。
大学にも、親にも、就活にも伝わる現実
逮捕されたあと、彼の時間は止まった。
大学の授業には出られない。
ゼミにも行けない。
バイト先にも連絡できない。
スマホは自由に使えない。
親に連絡が行った。
母は泣いた。
父はしばらく黙っていたという。
「何をしたんだ」
「どうしてそんなことをしたんだ」
「お前は犯罪者になったのか」
彼は答えられなかった。
自分でも、なぜそこまで行ってしまったのか、うまく説明できなかった。
金が欲しかった。
怪しいとは思った。
でも、一回だけならと思った。
途中でやめられると思った。
犯罪だとははっきり認識していなかった。
どれも本当だった。
だが、どれも十分な説明にはならなかった。
大学にも事情を伝える必要が出た。
就職活動は止まった。
参加予定だった説明会にも行けなかった。
インターンの選考も辞退した。
友人には、最初は「体調不良」とだけ伝えた。
だが、噂は広がった。
「何かやらかしたらしい」
「警察沙汰らしい」
「闇バイトじゃないか」
誰が言ったのかはわからない。
だが、彼の居場所は大学からも消えていった。
一晩の報酬は、人生を補償しない
彼が受け取るはずだった報酬は、数万円だった。
たしかに、学生にとっては大きな金額だった。
居酒屋で何日も働かなければ得られない金。
就活用のスーツ代にもなる。
家賃の足しにもなる。
飲み会にも行ける。
だが、その数万円は、彼の人生に起きたことを何一つ補償しなかった。
親の信用。
大学での居場所。
就職活動の機会。
友人関係。
履歴書の説明。
自分は普通に生きていけるという感覚。
それらが、一気に崩れた。
彼は、警察や弁護士とのやり取りを通じて、被害者の存在を知った。
封筒を渡した高齢女性。
彼女は、誰かを信じて金を用意した。
家族を助けるためだと思っていたかもしれない。
不安でいっぱいだったかもしれない。
その金を、彼は受け取った。
その事実は、彼を長く苦しめた。
自分は首謀者ではない。
詐欺の全体像を知っていたわけでもない。
誰かを騙す電話をかけたわけでもない。
だが、被害者から金を受け取ったのは自分だった。
「ただのバイトだと思った」
その言葉は、被害者の前ではあまりにも軽かった。
周囲の目は、元に戻らない
その後、彼は大学に戻った。
しかし、以前と同じようにはいかなかった。
ゼミの教室に入ると、会話が止まる気がした。
友人の態度が少し変わったように感じる。
教授も、言葉を選んでいるように見える。
本当にそうだったのかはわからない。
だが、彼自身がもう以前のように振る舞えなかった。
就活も再開した。
履歴書を書く。
エントリーする。
面接を受ける。
だが、空白期間について聞かれる。
大学を一時期休んでいた理由を聞かれる。
警察沙汰について、どこまで話すべきか悩む。
言わなければならない場面もある。
言わなくても、どこかで不安が残る。
彼は、面接で笑えなくなった。
「学生時代に力を入れたことは何ですか」
そう聞かれるたびに、頭の中で別の声がした。
自分は、何をしていたのか。
何を誇れるのか。
どうして、あんな投稿に返信してしまったのか。
企業側が彼の事情をすべて知っていたわけではない。
それでも、彼の自信は戻らなかった。
犯罪に関わったという事実は、外側から見える傷ではない。
だが、本人の内側では、ずっと残る。
「一回だけ」は、一回で終わらない
彼は幸運だった部分もある。
早い段階で摘発された。
さらに深く関わる前に止まった。
暴力的な役割を求められる前だった。
組織の内側に取り込まれる前だった。
だが、闇バイトは一回で終わるとは限らない。
一度身分証を送る。
一度指示に従う。
一度金を受け取る。
すると、相手は言う。
「もう一回だけ」
「逃げたら家に行く」
「大学に連絡する」
「家族にバラす」
「お前も共犯だ」
最初は金で釣られる。
次は恐怖で縛られる。
彼も、もし逮捕されていなければ、次の指示を断れたかどうかわからないと言った。
一回やったら、もう戻れない気がする。
相手に個人情報を握られている。
犯罪に関わった事実を知られている。
警察に行けば自分も捕まると思ってしまう。
そうして、さらに深い役割を与えられる。
最初は荷物を受け取るだけ。
次に金を運ぶ。
次に人を見張る。
次に別の誰かを誘う。
入口は軽い。
出口は急に重くなる。
最後に彼はどうなったのか
最後に彼は、普通の新卒就職のレールから外れた。
大学は卒業した。
ただし、予定より遅れた。
内定はなかなか取れなかった。
大手企業はほぼ諦めた。
公務員試験も考えたが、過去のことが頭を離れなかった。
最終的に、彼は小さな会社に入った。
職種は営業補助。
給料は高くない。
同級生たちが大企業で研修を受け、配属され、社会人としての一歩を踏み出すころ、彼は自分の過去を誰にも知られないように、静かに働き始めた。
親との関係も、すぐには戻らなかった。
母はまだ心配していた。
父は以前ほど彼を信用しなくなった。
金の話になると、家の空気が重くなった。
彼自身も変わった。
SNSをほとんど見なくなった。
高額バイトという言葉を見るだけで、胸が苦しくなった。
警察官を見ると、何もしていなくても緊張した。
彼は死ななかった。
長い刑務所生活を送ったわけでもない。
人生が完全に終わったわけでもない。
だが、元の道には戻れなかった。
一晩で稼げるはずだった数万円の代わりに、彼は何年もかけて信用を取り戻す生活を選ぶことになった。
それが、彼の末路だった。
彼が失ったもの
彼が失ったものは、金ではなかった。
むしろ、金は得ていない。
報酬を受け取る前に終わった。
それでも、失ったものは大きかった。
親からの信用。
大学での居場所。
就職活動の自信。
友人関係。
まっすぐ履歴書を書ける感覚。
自分は普通の人間だと思える安心感。
そして、被害者の存在を知らなかったころの自分には戻れなくなった。
闇バイトの恐ろしさは、金額が高いことではない。
普通の人間が、自分は犯罪者ではないと思ったまま、犯罪の一部に組み込まれてしまうことだ。
彼は、自分のことを悪人だとは思っていなかった。
人を騙すつもりもなかった。
暴力をふるうつもりもなかった。
ただ、少し金が欲しかった。
少し楽をしたかった。
少しだけなら大丈夫だと思った。
その「少し」が、履歴を塗り替えた。
これは、特別に悪い若者の話ではない
この話の本質は、
「馬鹿な大学生が闇バイトに手を出した」
ではない。
むしろ、こうだ。
金に困っているわけではない普通の若者でも、焦り、見栄、不安、孤独、就活前の出費が重なったとき、高額報酬の甘い言葉に反応してしまうことがある。
もちろん、犯罪に関わった責任は消えない。
知らなかった。
バイトだと思った。
一回だけのつもりだった。
脅されていた。
そうした事情があっても、被害者の損害が消えるわけではない。
だからこそ、入口で止まらなければいけない。
闇バイトは、仕事内容が曖昧な時点で危険である。
会社名を明かさない仕事は危険である。
匿名の連絡手段だけで進む仕事は危険である。
高額すぎる報酬は危険である。
身分証を先に送らせる相手は危険である。
「余計なことは知らなくていい」と言う相手は、ほぼ危険である。
彼は、それらの違和感に気づいていた。
だが、違和感よりも、目の前の金を優先した。
そこが分岐点だった。
どこが分岐点だったのか
彼が間違えたのは、金に困ったことではない。
学生が金に困ることはある。
就活には金がかかる。
仕送りが少ないこともある。
普通のバイトでは足りない月もある。
本当の分岐点は、怪しいと思いながらDMを送ったことだった。
そして、身分証を送ったことだった。
そこで彼は、相手に自分の弱みを渡した。
「一回だけ」
「受け取るだけ」
「中身は知らない」
「自分は騙す側ではない」
その言葉で、自分の危機感を黙らせた。
だが、犯罪の現場では、自分がどう思っていたかだけでは済まない。
自分の手が、被害者の金を受け取った。
自分のスマホに、指示の履歴が残った。
自分の身分証は、相手の手元に渡った。
自分の大学生活と就職活動に、消えない影が落ちた。
闇バイトの入口は、拍子抜けするほど軽い。
スマホで見る。
DMを送る。
身分証を送る。
駅に行く。
荷物を受け取る。
それだけで、普通の学生が犯罪の一部になる。
彼は破滅したわけではない。
だが、普通に歩けたはずの就職への道を、一晩で大きく曲げてしまった。
そして最後に、こう言った。
「お金が欲しかったんじゃなくて、楽に抜け出せる道が欲しかったんだと思う。でも、その道が一番戻れない道だった」
高額バイトは、人生の近道ではない。
多くの場合、それは誰かが用意した落とし穴である。
そして一度落ちると、這い上がったあとも、泥はしばらく落ちない。